伝承

季刊「忙中閑話」(マスコミプロダクション刊)平成16年(2004年)盛夏号より
取材・執筆:季刊「忙中閑話」藤井元秀氏

ご本尊と共に千手観音祀る 平景清持仏、厨子に

一寸八分の千手観音を納めた厨子(正面)曹洞宗・来迎寺のご本尊は、正面に釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩が祀られている。

ご本尊の前に小さな厨子(ずし)があり、この中に一寸八分の千手観音が祀られている。後述するように、約800年前の源平合戦の際の平家一門の武将、悪七兵衛こと、平景清の持仏(守り本尊)で、背部に、矢尻で彫られたとみられる景清の文字がハッキリ残っている。

来迎寺の下方、南へ約150米のところに国道176号線が東西に走っている。西方に走ると丹波篠山から鳥取・島根、途中、右に曲がると京都に至る。東に走ると、宝塚、大阪に至る。南を望めば、六甲山脈、その麓に日本最古とされる有馬温泉郷が横たわる。

一寸八分の千手観音を納めた厨子(背面)この景勝の盆地も、その昔の源平合戦の際、源義経が大軍を率いて平家一門を追討して行った古戦場の一つで、ここから一の谷、鵯越え、須磨の浦、瀬戸内の屋島、そして長門(山口県)の壇の浦へと流れて行く。
様々な哀話を抱えながら結局、壇の浦で平家一門は、海の藻屑と消え、滅亡する(文治元年3月24日=1185年)話は、あまりにも有名なので、改めてここで詳述する必要もあるまい。来迎寺は、実は、この源平の戦いと深い関(かか)わりを持っている。(後述)

頼朝、武勇惜しみ、仕官を懇望 景清固辞し、両眼を傷める

一の谷の軍(いくさ)破れ 討たれし平家の公達(きんだち)哀れ
暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛
更くる夜半(よわ)に 門(かど)を叩き わが師に記せし 言の葉哀れ
今はの際まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは”花や今宵”の歌

(「青葉の笛」作詞・大和田建樹、作曲・田村虎蔵)

来迎寺須弥檀源平合戦、一の谷の戦いの一幕を歌った「青葉の笛」である。

源氏勢に追われ、逃げおくれた平家の武将、平敦盛を熊谷直実が捕らえる。顔を見ると、何と、わが子同然の若武者(16歳)、一瞬たじろぐが、どうせ後から来る兵に殺されよう、ならばわが手でと、涙を呑んで首を刎ね、”敦盛塚”に手厚く葬る。この時、横笛の名手、敦盛は、錦の袋に入れた名笛”小枝(さえだ)の笛”を腰に差し、矢を収めた箙を背にしていた。この笛は、今も須磨寺に保存されている。また、熊谷直実は、世の無情を感じて仏門に入り、法然上人門下で蓮生坊と号したが、建永元年(1206年)9月14日、端座合掌、高声で念仏を唱えながら66歳で生涯を閉じた。

平家一門が壇の浦で滅亡したあと、悪七兵衛景清は、不思議に命永らえて九州東海岸を落ちのびて日向(宮崎県)に入るが、畠山重忠に捕らえられることになる。

一方、九州へ落ちのびる前、長門(山口県)の秋吉台などの洞窟に隠れていたという説もあるが(山口県庁調べ)、ここでは省略する。十分に考えられるが、ここでは宮崎での興味ぶかい、確証ともみられる一つの資料を紹介する。

当時の日向の国、いまの宮崎市下北方町5837番地の場所に「景清廟(びょう)」跡が保存されている。そこにある碑文を紹介する。(原文まま)

「この廟は、景清公と娘、人丸姫の遺骸を祀る。回顧すれば、公が壇の浦の渦中より脱して、頼朝を亡さんと心胆を砕かれしも果たせず、畠山重忠に捕らえられる。頼朝、公の武勇、非凡なるを惜しみ、己に仕えんことを懇望す。公、固く辞して、直ちに自らの両眼を傷つけ”この目あらば、貴公を殺さん念、常にやまず。然るに、今は盲目たり。もはや、敵対する念なし”と。ここに於いて、頼朝の仁命により、日向の勾當(こうとう)となる。文治2年11月下向、時に齢、32歳也。」

仏心の勾當、村人に人望 62歳、数奇の生涯終える

山門から三田盆地・六甲山系を望む「勾當(こうとう)」とは、当時の役所の様々な職をさすが、景清は、盲目のため、検校(けんぎょう)の職を与えられていたと推測される。また、小さな廟(住まい)も与えられ、時には、昔を偲んで、己れの武勇伝を含めて、平家一門の物語の”語り部”もしていたようである。

 

景清の宮崎での行跡は、宮崎県庁(観光課)に残る資料でも様々である。今回は、それらを温存させて頂いて、当・来迎寺が独自に取材した史実にもとずいて、景清のサワリ(要点)を紹介する。

景清は、この宮崎の地において、深く神仏に帰依、社寺を建立したり、修復したりしている。また、盲目ながら村人たちの面倒をよく見たりして人望があったという。この地に落ちのびて勾當となったのが、文治2年(1186年)、32歳の若さ、それからの人生30年。村人たちに惜しまれてこの世を去ったのが、建保3年(1216年)、62歳であった、いまから788年前である。

亡き者にせんと念じた源頼朝の鎌倉幕府が始まって20数年後であった。

なお、「日向民話集」によると、景清は、霧島山に参詣の帰途、山中の池のほとりで病死、景清廟に埋め供養されたという。

(注)=鎌倉時代は、建久2年(1192年)から141年続いた。

娘、人丸と苦境の再会 死後の供養託し、涙の別れ

矢尻で彫られた景清の二文字数奇な運命を辿った景清には、もう一つ、劇的な哀話がある。これが当・来迎寺と深いつながりを持つ。

景清には、かつて尾張・熱田の遊女との間にできた人丸という娘がいたが、女であるがため縁を切っていた。鎌倉に住む人丸姫は、父が日向に居ることを知り、遙々と訪ねる。様々な伝説があるが、奈良・興福寺の”興福寺勧進能”の「景清」によると、次のように記されているので紹介する。

「武勇で鳴らした平家の景清も、遠く日向・宮崎の里に流され、いまや”日向の勾當”と名乗る盲目の平家語りになり果てている。そこへ、かつて尾張熱田の遊女との間に子をもうけたが、女子ゆえに早く離別した人丸が尋ねて行く。しかし、娘と気づいた景清は、この身を恥じて、悪七兵衛景清など知らぬと、立ち去らせる。一方、人丸の親探しを知った里人の計らいで人丸はついに景清と対面する。配流、かつ老残の身を思い、心を閉ざしていた景清も、しだいに心をなごませ、娘の所望にまかせて、屋島の合戦などを物語って、かつてのわが武勇にしばし身を置く。しかしその身も思えば露命いくばく―。故郷・鎌倉に帰る娘に、わが供養を託しつつ、別れを告げる。(略)」

来迎寺に託された、景清の持仏 人丸姫、村人への功徳を願う

人丸に託された千手観音人丸姫は、帰途、海路を選び、壇の浦、屋島など、父・景清の戦いの跡を偲ぶ。そして、須磨浦あたり(尼崎の説もある)で陸路を取り、やはり、鵯越え、一の谷…と平家敗走の跡を逆に歩き、三田に至る。

南に六甲山脈を望む風光明媚なさる小高い山麓に辿りついた人丸姫は、ここで四大不調(病い)で倒れる。折りよく山麓の一角に古びた寺があり、これも天の恵みぞと、療養のために身を寄せる。摂津国有馬郡三輪字清水―。その名のとおり、清水が湧き出していた。その寺が、来迎寺であった。

日向で別れるさい、手渡された父・景清の守り本尊、一寸八分の千手観音像を寺に祀り、病の回復を祈るうちに、霊験あらたか、不思議や、病は快癒した。

人丸姫は、この千手観音の霊験あらたかなりと驚き、地元の多くの人たちに功徳を頂いてもらおうと考えて、父の守り本尊をそのまま来迎寺に安置し、自らは、京都を経て鎌倉へと旅立った。

以来、千手観音像は、そのまま来迎寺を一歩も出ることなく、現在に至るも多くの人たちに功徳を与えている。
「青葉の笛」に代表される源平合戦、平家滅亡の余話に、来迎寺の由緒も連綿と秘んでいる。